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石の魅力の本質について 独断と雑考 芸術の目的と実用のそれ

私は二つの異なる産地で、石材に関わっているので、
良いか悪いかさておき、ここんところ石の事ばかり考えています。(笑)

日本の文化の代表というと、たいていは、漆器や陶器、和紙やきもの、竹細工というような事
になるでしょうし、木質系、草系の素材のものが、環境時代の要請から、世界的に
注目を浴びる必然は否めないものです。
これは、経済原則も伴う環境対策の視点あっての事で、
循環資材として適切なものとして、植えれば数年で育ってまた利用できるものが注目されます。

しかし、現実には植物系、動物系、鉱物系、色々で自然素材、原料は賄われ、
人体と環境の両面にとって良いものと考えると、何が一番と、言えない部分もあります。
例えば、アレルギーや管理面とかも含めると、かえって鉱物系の方が良かったりもします。
(適材適所、素材の特性にあった使い方がしたいという意味です。どれが優秀で、
どれがダメとかではありません。)

ただ、鉱物資源は、採掘してしまうと、元には戻らないので、
それがしばしば環境破壊の象徴のように言われはしますが、
例えば、伝統工芸産業の採石では、一般の量産工業製品よりもずーっと、スローな
ペースで必要最低限の採掘をされます。
また、以外にも、石材は大半がそのままで、用を足す強度があるので、二次加工を
さほど必要としません。最小限度です。
多くの素材が加工で沢山のエネルギーを使って化学合成や高温焼成をし、
人為で強度確保するのに対し、石は地熱と高圧でできた天然の耐久性をもつものですから、

こういう点を考慮していくと石は意外と環境適合性が良いという事になります。
石の厄介な部分があるとすると、何より重く、
(実は重いから低く使うと安定していて使い良いものもあります、下記で描いてます)
加工の大半が人間力によって賄われる事かも知れません。
(現代は機械を使って24時間フルオートでつくる事も出来ますが、機械で出来ない事を
伝統の石工などはやっています。)

また、ここが重要ですが、どなたも御存じのように、
地層から岩盤ができあがるまで数憶年かかってるので、素材の安定性は一目圧倒的であります。
私が別に関わってる漆器などは9000年前のものが残っていて、そこにたいへん魅了されています。
それ以上に石は長期安定素材であるので、庭にほおっておいても苔生して、
やがて割れたり欠ける事はあるが、身の回りでふつうに使っていて、
有害なものに化学変化する事は概ねなく、(植生に馴染む事は人にも割と安心)
古来安心感がある。この信頼性は最もわかりやすい。

これを実感したのは、とある伝統石材をこれまでない使い方をするために、
念の為、安心安全の社会風潮にあわせ成分検査を試みたのですが、何も問題が出ませんでした。
まず石材は、法的規制が殆どありません。

そもそも、一般的には、石を日用道具として見る発想がさほどないようで、
石材は墓石とか、庭石とか、いわゆる調度品の法規制です。
調度品は飾りですから、あんまり細かいルールがありません。
自助努力で、自主規制で親切に考えるという事になります。

それはいいかえると、石材が安定素材で、人体に対してほぼ無害である事が
古来解っているので、ゆえに自然石をそのまま使う事は、法律で規制する必要が
さほどない、という事でしょうか。(真意は不明、私の勝手な想像です)
無論、品質表示とか、最低限のルールや製造物責任のガイドライン=注意勧告義務はパスしないといけません。
例えば化学合成素材の場合で、下地が何か不明、仕上げも不明、
経年や使い方によって変質しうるような、日用品の場合は消費者問題もしばしばおこり、
よって、法規制がきついので抜け穴を探す業者も多い、規制前提分野である、それに比べて安心という事です。)

つまり一般には、概ね石材は解りやすい安心安全材料である。
※アスベストのような石綿もなかにはあります。ウランとかヒ素を含むものとかも。これは特例で
ふつうに出回る素材ではないです。花崗岩とか古来身の回りに
数100年前からふつうにある石は通常何も問題は無いわけです。

そのような事が多くの人の心の暗黙にあって(意識の下にある)石をみると、
多くの人が石にやすらぎや、高級感を感じる。

また、以前、ブログでも描いたように、採掘は、重く危険を伴う、
簡単に山からおろす事ができないような現場ですから、
そのような人件費や資材投資が値段に乗ってしかるべきという事です。
それは一般に幾分か理解されています。

このような事で、石材=高級品、贅沢品という図式がしっかりできあがっていて、
石材の使われ方や解釈とは、いわば高級に見せる=悪く云うと成金趣味と、大雑把に想われがちです。
市場的には高額の印象が付きまとうので、まず手に入らないという発想をする人も多いです。
このような事から、

石の一般的なあり方は、概ね物欲依存で、デザインの不在になりがちであります。

デザインでは、素材の是非は重要ですが、
実質貢献性を求めるべく在り方を模索するのが筋でしょうし、
贅沢感の獲得の為に、素材の高級さに依存すると、
それは民主的、生活者の為のそれから、だんだん離れてます。

私が言いたいのは、例えば、昔は誰の家にもあった、餅つきの石臼や、漬物石や、沓脱ぎ石、硯や、束石や、
というような、生活道具として身の回りに自然に溶け込んできた石、
重さや自然の安心感を生かした道具や民具、
そういうのが、今すっかり消えて仕舞ってる点、ここが残念で。
もっと人の目線で、自然の石と付き合ってもよいのではないかと思うのです。

自然素材が住環境から消えてしまった理由は大量供給された原油素材にとってかわられたという事
もありえ、石に限らず、木材や竹やなど、自然素材の良い部分が研究されないままで、
風評で移行したと、個人的には感じています。

例えば木材は弱いと云いますが、実は、火災の時には鉄骨よりも丈夫です。
鉄骨は溶けますが、木材は表面が炭に成りながらも大きな断面を持つ木材だと強度を保つからです。

漆器は贅沢品とおもわれてるようですが、修理しながら使えるのは漆器の本質で、
絵付けが目立っていた為に贅沢品しかない誤解をされている部分が多いでしょう。
(絵付の美術性を好む人も沢山いるので絵に意味があるなら、それも良かれと思ってます)

反対にプラスチックやビニルが衛生的と、必ずしも云い切れず、漆器は天然の抗菌性
あれど、合成樹脂は静電気を誘発し、汚れが案外付着しやすい。湿度を吸わないので、
はじき水分が浮いて表層は腐敗やカビの原因となる、
つまり合成素材は、新しいうちは良いが、古くなると空気で溶けたり高質化するので
経年で風合いになり難い。(熱で溶かしてつくり、自然に対抗する素材なので当たり前ですが。)

ビニルクロスなどは廉価に手軽に張替できる日用で非常に都合よい素材ですが、
リフォームでめくってみると表は無くとも裏は、時折カビの温床となっていて、
それは樹脂が呼吸しない素材である為です。

(※ビニルは長期で不都合な変質をするので短期用途には向くという、適材適所です)

合成樹脂の正義は、原油由来だと廉価に大量に製造できる事で、物資不足を急速に補う事ができた点でしょう。
燃料であり素材でもあって、軽量で、流通適合性が良い利点です。
しかし、今は、既にものが溢れていて、急いでものを供給するほどの時代でもないでしょう。
丁寧にものをつくってもいい時代になってるでしょう。

イメージと実態の間には色々な誤差があるので、
私の立ち位置は、その本来の姿を掘り下げて、
実用的な使い方や審美性のある提案を試みるものです。
原油に変わる何がしかがあるかもしれないと仮定して数100年使われた
素材に持続可能な在り方がないか、色々模索してる昨今です。

***

話が脱線してしまいました。
元に戻します。

石材は高級志向、これは一般で、デザインがさほどされてない、これが私の見解です。
古来の茶人は自由な使い方で石材をデザインしています。
庭燈籠は元は屋外の照明・献灯用で、社寺に在ったもの、
それを街中の茶庭にサイズダウンしたり、中古を使ったりして持ち込んだのです。
つまり、場所と使い方を変えた。そういう柔軟な発想です。

また、建材として、石を使うと高級に、威厳があって見える
こういうような使い方で、かなり乱暴に建築にペタペタ張られた時代もあります。
高度成長で日本がおカネ持ちになって、建築物は石を表層に張って見せた。
実は構造本体は石でなく、装飾。いわば、タイルのように石を薄くして、
少々ムリのある使い方をされてきたとも言えます。
この点、金箔のような歴史も日本にはあるので、薄く貼って、表層を豪華に見せたいのは、
日本人の民主的本音でもあるかもしれません。
(薄さや平面性の表現はきものの絵柄などにも通じるともいえ。)

また、石造に見せる事は、明治以降の日本では、西洋列強に対して、
コンプレックスを感じている事の暗喩であろうと思います。

西洋文化とは言わば、覇権の歴史でもあって、征服の旗印として、
石を高く高く積んで権威を象徴してきたような文化と云えなくもないでしょう。

象徴的にはトルコのコンスタンチノープルでは、エジプトの巨大な石碑をもぎ取って戦勝記念に建てたりしております。
パリの宮殿構造は政治的に戦争せずに勝つために厳密な左右対称形で厳密な様式で石造建築を建てたと。
そういう発想が根底で権威と経済が一体化、やがてNYの高層ビル群となり、
そのてっぺんに士気を無理やりへし折るかたちで、ついに9.11が起きます。
塔を伸ばせば覇権の争いとなる、これは宿命かも知れません。
こういう歴史もあって、
世界的にいうところの、芸術の目的は、しばしば、脅威と驚き=政治や経済、啓蒙広告でしょうか。
つまりパフォーマンスが濃厚が西洋の美の歴史でしょうか。

日本人は西洋的な舞台美術性を芸術と解釈しやすいので、芸術はインパクト!
の発想が、一般的だろうと思います。
私個人は、東洋的な美も好ましいと感じます。
地味で簡素でも、生活に溶け込む調和の美があって好いだろうと。

また、建材利用の目線は、
西洋では木材資源が枯渇して石しか使えなくなったという歴史もあるようです。
ギリシャ・ローマ建築では薪や武器の製造で木材が枯渇し、
家屋は、木造構造の仮構がそのまま石造建築へ写され意匠化されていて、
これが元は木造文化の名残とか言われます。

よって、ローマに端を発するような石の在り方は概ね物質的な、
人を驚かす大陸建材であって、島国の日本人はいわば観光目線でその表層に憧れ、
風土は木材の芳醇、木や竹、紙や土、や漆、といった、多様な自然素材を上手に利用してきた
歴史をもつ国でありながらも、
そこを否定し、石造に異国なロマンを感じ、あるいは、実際は廃墟の栄枯盛衰を、
不朽の美と解釈し、遺構として表側に堂々と石張りを行いがちです。(これ20世紀)
しかし、
石を上に積むのは並大抵でない、地震の多い国で石の構造利用は不適合で、
日本らしい建築方法は石を表面に張る=装飾に扱ってきたのだと思います。
つまり、建築のような大きな立体に石を使っているように見えるが、
実際は、グラフィカルな石だった。これが実質。

その次に、石は基本に採掘や重量運搬の都合で高価ですから、景気悪化とともに
営利優先の経済原則にそって、「石らしいもの」がでます。これは必然でしょう。
石を建材として大きく使う事に日本の風土では必然性がさほどないので、
代替え可能なものが出ると、まず、予算カットになり、
石らしい高級イメージの素材に切り替わる。
磁器タイルとかはまだしも、人造石とか、石に見える樹脂です。石そっくりなプラスチック。

私個人は樹脂は樹脂の良さがあるので、置き換えは庶民的な高級に見せたい本音を
巧く捉えた商魂とおもいます、
そうでなくて、樹脂らしい見せ方をし、石は石らしくつかうほうが、誠実だと感じるのでありますが、
売る事が第一と考える人たちは、時代の風が自然志向へ変わっても、
表面的高級感の考えをなかなか変えないでいると感じています。
(展示会で石を出すとこれ石ですか?と不本意な質問をしばしばされます。それだけ偽物の石が
出回ってるという事でしょうし、本物の質感ある石を殆ど見たがないのかもしれません。)

さて、石の石らしさという点ですが、古来の日本的な建材でも、石は使われてないわけでなく、
ざっくりいうと、神社仏閣の階段、庭の延べ段や家屋の束石、
同、神社仏閣の献灯としての石燈籠、そしてたまに石橋、
つまり、外部で自然環境に触れる部分で、耐久性が必要なところは実用本位で使用されてきた事でしょう。
苔生しすり減った石段などは自然にすっかり溶け込んで私個人は好ましいと感じます。
自然に溶け込みつつ数100年耐え、使われ続けてる、本来の姿でないでしょうか。

それと、もう一つは、いわくら(盤)というような、ご神体と言えるような象徴的石。
日本では、宝石のような装飾品としての石はさほど歴史がありません、
勾玉くらいでしょうか。宝石は透明感とか煌めきが基調でしょうから、
色の地味な自然なりの美は宝石とはなかなかなりづらく。
あるいは、書院の傍らに置く硯箱のような。これは実用と装飾の中間的な存在かと想います。

つまり、日本の石の在りようは、基本にひっそり実用として、程よい使用加減であって、
これ見よがしに全面石なんて事は滅多に無いのであります。
赤坂迎賓館とか、日銀の建て物とか、日光東照宮のようなのは特例で、
一般には、風土に調和すべく地面近くで、水平ないし、斜面に沿い、
あるいは、人の目線をさほど超える高さまで積まれ、張られる事はさほどなかった。
(燈籠だと、概ね五尺=約1500mmが適当とか言われます、それは手が届く高さです。
港の灯台して使われてる高い石の灯台もたまにありますが上はたいてい木造。)
つまり自然の目線では石を高く積むのは、高すぎると不合理だからでしょう。

つまり、現代的な高層建築で石張りをするには、物理的に、構造は鉄骨、
表面に軽量化して貼るべく薄くスライスしないとけなくなって、
私個人は、不自然な気がします。政治力、権威を目的とする場合や
車が走るような舗装は別ですが、表層を気温追従する素材で覆うと、一般には居住性が落ちます。
(暑く、寒い空間となる、雨水が滝のように流れる。)
石はある程度厚みがあって石の重みが生かされ、
蹴って割れるような薄い石の使い方をするくらいなら、石を無理やり張る必要ないと思います、
それはプリント柄に似ます。ならば、もっと別の軽量でメンテしやすい素材が誠実で適当かも。

ともかく、日本的な石は、塊として使うのが自然で、
例え小さくとも丁寧な印象で自然な在り方であってほしい。と、私個人は感じます。

石はそのままで結構存在感が強いので、
木材始め他の多様な素材に巧く溶け込み、出過ぎない程度に上手に空間に調和するならば、
温暖湿潤なアジアンな気候の日本の風土で石の良さが生きる、
心地好いのではないかと思います。


  1. 2011/01/27(木) 12:26:17|
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関東伝統工芸士会賞 受賞

先日開催されていた横浜高島屋の伝統工芸展へ真壁石燈籠は例年通り出展しました。

真壁石燈籠は会期中沢山の売約を頂きました。有難い事です。

中でも野仏が大変な人気でした。
野仏は産地で古くから作られている、道祖神の一種です。

「真壁よせとうろう"」は「関東伝統工芸士会賞」を受賞しました。ありがとうございます。

********

現在、場所は変わって、日光輪王寺、紫雲閣にて、真壁石燈籠は出展しています。


日光伝統的工芸品展

 日時○9月17日(金)〜19日(日)10時〜17時(19日は16時終了)

 会場○日光山輪王寺紫雲閣 *入場無料

 栃木県と近県の伝統的工芸品(国指定)の展覧会

 出品予定=益子焼(栃木県)、結城紬(栃木県・茨城県)、真壁石燈籠(茨城県)、 岩槻雛人形・江戸木目込み人形・春日部桐箪笥(埼玉県)

        

同時開催イベント いけばな展「伝統的工芸品にいける」 

 小原流宇都宮支部   

 日時○9月17日〜19日 10時〜17時(19日は16時終了)

 会場○日光山輪王寺紫雲閣



真壁石燈籠と、益子焼、岩槻人形が同じフロアで、いけばなの小原流様と共演します

日光展示会


昨日の大雨の中、搬入設置をしてきました。
石燈籠と人形と焼き物、異質なものが、
同じ室内で同居してますが、
それをつなぎ、引き立てるように生け花が加わり、

庭が見える紫雲閣という会場の中で展示しています。

石燈籠に生け花という企画はあまりありません。

現在開催中、17日、18日、19日、3日間です。
詳しくはこちら。

「日光伝統的工芸品展」〜日本の美<伝統的工芸品・いけばな・茶の競演


  1. 2010/09/17(金) 16:17:43|
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真壁石燈籠について 石工芸の産地と作り手 現代加工と手仕事

何でもかんでもコツコツつくってるかというと、そうではありません。
24時間フルオートで稼働する石材工場もあって、そこでは巨大な石が全自動で
切られ、磨かれています。
これは墓石や建材の工程で、墓石は建築用材は割れてはいけない、磨きが前提の品なので、機械加工が可能なのです。といっても複雑な形は在って、それは三次元加工機があって木工のろくろの様に石を容易に引く事が出来ます。
しかし、仕上げの部分は手仕事に依存していてそれは慣れた職人の仕事でもあります。

また、先にあげていたB材や、帯状の斑、等は加工不良の元ですが、自然材ならではの味の部分でもあります。
墓石には向きませんが、テーブルなどにすると面白い部分でもあります。

加工工場では水を大量に使って切っています、したがって流水に砂が混じるのですが、沈砂層があって、改修し、資材業者の手によって、二次加工品となります。無駄なく使われ、排水汚濁もなくなる仕組みです。

場内に結構年季の入った燈籠がおいてありましたので、きいてみると、
これはまだ10年なので新品です、出荷前の品です。と仰る。

石の世界では、10年は新品、カルチャーショックです。
一般商品では10年経つともう、時代遅れ、ゴミになりかねない。
時間がたつほど価値があるというのは、現代で大事な観点だと感じます。

***

さて、一方で、なぜ、十分な機械があるのに、わざわざ手で掘るのか?
そこがもっぱら不合理に見えてなりませんが、

実は、機械で切った直線や丸は、手で石を打った直線や丸とはまるで仕上がりのやわらかさが違います。
伝統工芸士のところには、機械でつくられた、あるいは、手抜きをした燈籠が良く修正依頼で来るそうです。
つまり、機械でつくると、概ね早くはつくる事が出来ても、それは庭に置くと溶け込むようなやわらかみにはなっていないという事。

文章や写真ではこれは解りにくいところです。
現物を見ると全く違う事はすぐわかります。
手でつくらないとならない品なのです。

それと、最も大事な事があります。
それは人間が使うものは手でつくる事によって人間サイズに馴染みます。
まやた、その生産方法は手仕事ゆえに、必要最低限度、スローにしかつくられません。
そこが、実は環境的には極めて低い生産方法でもあります。
山が消えてなくなるというような事ではないのです。

実は、石材は一般の生活用品よりもエコな部分があります。
というのも、素材をそのまま商品にしていて、二次加工がないからです。
つくられた品は最低でも100年はゆうに持ちます。少々壊れるようなものではないです。
対し、
一般商品は、原料は地表や地中から採掘されます。それも大量消費前提の、
強烈な採掘消耗で
そして、輸送の過程で大量にCO2を出します。
さらに、それはまだ材料なので、二次加工で電気を山ほど使います。
販売の過程でも沢山電気を使って売っている。
パッケージもゴミ。
そして作られた品は数年で壊れる、あきられる、使い捨て。

どうでしょう。
石材は確かに山を削ってはいますが、
一般商品よりも環境面で優秀だと気がつくと思います。
  1. 2010/06/24(木) 04:14:27|
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真壁石燈籠について 石工芸の産地と作り手 その3

真壁石燈籠は国の伝統工芸指定産地です。
指定産地の条件は、詳しくはここに記載ありますが、ざっというと、生活の日用品で、手作りが基本で、伝統の材料で伝統技法でつくられ、100年以上続いてて、一定の産地形成されている、というようなものです。
真壁が産地として認証されたのは実は平成になってからですが、産地の歴史は古く室町時代からの石仏、石塔を基礎に続けている産地です。
その証拠となった石燈籠や石塔を案内して頂きました。
五輪塔群は、風雪で削られてなお、意図が変わらない強い形です。
五輪塔というのは、お墓の原型で、元は仏舎利の塔、ここから、自然界の五元素をおでんみたいに積んだ形です。
四角=土、丸=水、三角=火、おわん形=風、玉ねぎ型=魂、を意味してます。
真壁よせろうとうでは、この五輪塔と燈籠と、手水鉢を参考に取りこんで、
真壁で独創した形です。
飾り気がなく基礎的な形であっても、風雪を超えて強く残る。
欠けてなお伝わるものは心を打ちます。CA390434のコピー


五輪塔の近所には、石工の西片様の先代が作られた石鳥居があります、石鳥居は石は石工の仕事が何代も残ります、産地で伝統工芸士のおじいさんの仕事と
言う石の鳥居を教えてもらいました。

「ここが失敗してる」、とか、「これだけの大きな材料はなかなか取れない、よく仕事してる」とか、仰るわけです。

また、帰り際に目にとまった野仏群がありました。それは田んぼのあぜ道の途中で道標と一緒に無造作に半ば倒れかけて在りましたが、その素朴さと、観るほどに、品のある造形が施してあり、さすがに石の産地であるな、と心を打ちました。誰が作ったのか解りません、
名もない石工の仕事ではあるが、人と自然が調和し、
なんともいえない丸みを帯び、自然の懐でひっそりと佇んでいます。
野仏

それは確かな質感と存在感をもっています。そういう仕事がしたいものだ、共感しました。

最低でもそういう仕事が石工には求めらるというのでしょう、
では、新しい形は、意味が無いか?
というと、そうでもないと思います。
時代時代で、必要な最適なそれ、はあるのでしょうし、
すくなし、、先人の仕事を参考に精進せよと言う事でしょう。
  1. 2010/06/21(月) 00:05:35|
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真壁石燈籠について 石工芸の産地と作り手 その2

真壁石燈籠の採石現場の背景を紹介をしようと思います。

石が採られている現場をみると、大変な現場である事をすこしは、想像できるでしょうか。

私が訪れた時、調度発破の最中でした。
石材採取は元は重労働で、現在は重機で採取や運搬をしてますが、
その機材も重すぎる、負担がきつすぎる、という事で、しばしば故障する、修理代も数百万かかる事はよくあるので、
そういう労災費、物損料、加工運搬費がつまり、石の価格という事になります。


大きな塊を砕く事はたまにやるようです。産地の人は慣れてます。
小さい(といっても、数トンある)塊は矢羽根という金属のたがねで手で割ります。

私たちは5人ほどで、山へ車で出かけたんですが、現場に来てしばらくして警報がなされ、
場外へ退避しろ、と言われました。
クルマもバックして場外へでて、ほどなくして皆は耳を塞いだので私も同様にしました。
どん!というお腹に響くような爆音とともに
煙が立って、ぱらぱらと、小石が空中に飛び散るのが見えました。

たしかに、あれが人に当たると怪我をします。当たり所が悪いと死ぬでしょう。
ボンネットに当たるとボディが凹むこともあるでしょう。
それなりに危ない現場です。

***

退避した後で、ごろごろと2t3tの石材の塊がごろごろあるところへ見に行きました。
山ほどある石材は実は使われない品です。

訪れた山は、元は燈籠や蹲や縁石、つまり石工芸の材料もとっていたのですが、近年山を持つ人が燈籠用の石をとるのをやめてしまったようで、メインは墓石になっています。


墓石と燈籠用の石は根本的に石材が違います。
真壁の石は、御影石(いわゆる花崗岩)の一種で、比較的硬い部類ですが、その中で、山頂に近い部分が風化が進んでいて、やわらかい。ここが彫刻に適す、程よく風化していく、燈籠に適する部分です。
山頂部

反対に墓石は磨き仕上げが中心で、風化してはいけない、つまり、緻密で硬い部分を使います。これをA材というようです、そして、その中で斑があって組成安定しないので使えない部分、これをB材といい、それは使われる事があまりありません。採石地に放置して在ります。

加工する手間よりもそれを放置するのが現実的だからです。
実は販売もしているようで、3〜4tあるものが山から自分で下ろす事ができるなら、高い事はないようです。
ですが、山から下ろすのはちょっとやそっと出できません。
B材


燈籠の工芸士である、小原正氏(伝統工芸士会現会長)は、これを自分で下ろして加工した事があるという事ですが、
トラックが横転しそうになり、とても難しい事を語っていました。
無論、それをカットし、加工する事が出来なければなりません。
よって、素人で扱えるような品ではない。

また、伝統工芸士は石の目を読む事が出来ます。
石には実は、木目のように、筋目や節目があります。一般に出回ってる石材はそこを捨てていますので、気が付かないのです。
B材はつまり、筋目や節目があって、そこが下手をすると割れたり欠けたりの不良の元となり兼ねない部分です。自然石ならではの、面白い模様、風合いがある部分ではあるのですが、使いこなすのが難しい。風化が味となる庭の調度品ならまだしも、建材や墓石でひびが入って割れてはよくないし、危ないので、実用性からはねられています。

私はこの棄てられている石がとてももったいないと感じました。
可能なら何とか生かしたい、そういう想いがありました。
7名の石工の人たちもそこに転がる石に手を当てて、石の目を読みながら、同様に感じていました。
(のちにそれを生かす事になります、それが真壁よせとうろうの素材の一部です。)
DSCF01342.jpg


***

燈籠や蹲用の石材の採取は庭付き一戸建てブームがあった高度成長期には山ほど出たようですが、今はすっかり落ち着いており、それでは不採算という事で、やめてしまったという事です。
つまり、石燈籠にはまず、古来のままの材料がなかなかない、という現実的課題があります。
産地の工芸士の人たちは、硬く、目を読むのが難しいB級の材料を使いこなすか、
他産地(国産)から取り寄せるか、二択となります。



  1. 2010/06/18(金) 13:57:37|
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真壁石燈籠について 石工芸の産地と作り手

2009年〜現在、真壁石燈籠という石工の産地と関わっております。

日本は木工の文化という印象が強いですが、実は石もかなりの歴史をもっております。
建築でコンクリートが使われ、護岸もそれになっていらい、切り石の仕事は社寺仏閣や城跡、庭園に限られる
感じですが、矢羽根やノミ切りやビシャンという、石をたがねで割り、ノミで打ち彫られ、金槌で叩いて丸める、平らにしていく、そういう、石の仕事は忘我、自然調和の極致、現代建築で、CGで貼られたかのような表層的な石とは全く対局の質感を持ってます。石は塊で使って心に訴えかけるところはあります。
塊で使うという事は、石を大事に大事に使わないといけません。石は山から頂いた貴重な資源ですから。
だから、石工の人たちは丁寧にコツコツと手で途方もないほどの手間をかけて彫っています。
途方もなく忍耐強い仕事であります。
人柄がまったく出てしまう仕事です。つくり手によって同じ図面でも違うものになる。(後で描く予定です)

***

石工の人のコトバで、最も心に響いたのは、「石ってあったかいものなんですよ」という一言でした。(伝統工芸士:加藤幸彦氏談)
私は幼少時代から地元の周囲の社寺や護岸、あるいは京都在住のころ、日本の各地へ赴いて社寺のそれを肌で感じてきたので、境内で夏の日差しを受け、風雨にさらされ、丸みを帯びたそれらを=石段や石燈籠等や石積みの護岸等を即思い出して、
私が作りたいのは、そういう古来の世界観なのだ、と感じたのです。
あくまで私見です、ひょっとし偏見もあるかも知れなけど、
これは現代的デザインがまったく置き去りしている価値観だとも感じています。
現代デザインは限りなく表層的になってしまっています。CGとビジュアル広告が前提の時代の影響でしょうか。
身の回りのものや現代的な空間は、大抵が、
傷がついたりカドがとれてしまうと価値がなくなる、へたをするとゴミになるような品ばかりです。
私はそういうものではない、なにか、を常々作りたいとおもっています。
これはかつて会社員時代に店舗の仕事でペラペラのものを作ってばかりいた、その反動かもしれません。

例えば、
現代建築における、例えば店舗の工事で京都にいたころに床や壁に薄い石を貼ってます。それらは蹴ればすぐわれるようなものです。角も役モノがないと収まらないようなものです。最悪には石の粉を吹きつける、さらには、石にみえるような、石では全くないそれ。
それは単に豪華に見せる為にあります。完全に虚飾のもので、そう言う見た目重視で質感を棄ててしまった割りきりイメージが本来の石の良さをすっかり歪めてしまってると
今は強く感じます。

古来の日本の石は、そういうものではなく、素朴な日常の実用品であったり、シンボルであったりです、例えば臼とか、住宅の基礎とか、階段とか、道祖神とかです。
だから人間サイズを大きく超えて、表層で威圧するというようなものでなく、
質感で、重み、温か味を伝えるようなものでありました。
それが虚飾になりだして、おかしなことになったんではないかと個人的には感じています。


古来の石は、
大きく角が欠け丸みを帯びてきても素のイメージが変わることなく訴えかけてきます。
現在のプリント的な石の貼り方と、古の石の仕事とは、全く対局なわけです。

その古の仕事のまんまに今も続けられているのが伝統工芸士の石工、手仕事しかしない人たちです。

私は縁あって七名の石工の方とともに、現代の生活に合う石の調度品・・というか、家具というか、そういうあいまいな存在を作る事になりました。それが真壁よせとうろう、というちょっと小ぶりなそれ、なんですが、

その制作背景についてブログで少し書いて、あたたかな質感のある石の事を知ってもらいたいと思った次第です。
あまりにも石は知られておりませんので。

  1. 2010/06/18(金) 12:48:18|
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温暖化対策期限と新生産技術時代

本日のWBSにおいてとても気になる観点。

京都議定書の約束期限が来年に迫ってきている。
2005年の結果は、CO2を減らすどころか8%増えたという。
つまり2007年からは6%の約束+8%CO2をダウンしないといけなくなった。

一般生活者にはなんとなく理念で、温暖化対策をしないといけない
そんなイメージだけだが、
企業の使命は、具体的に一層過酷に温暖化対策をやらなければならないのであり、
そこで原油材料の素材や燃料を有機素材へ転換と言う事が
だんだん普通になってきてる。

環境負担の少ないバイオプラスチック(生分解プラスチック)はトウモロコシ由来でレジ袋も有料化する。
車の燃料もバイオエタノール、同、トウモロコシ。

トウモロコシは畜産の餌でもあるから、
原油の代わりにトウモロコシとなると、
例えば畜産業界での生産も厳しくなる。農地も穀物生産を一層やるようになる。(米国ではまさにその傾向が進んでいる。これは原油高と無関係じゃない原油が高いのは、足りないんじゃなくて、投資リスクを勘案した為でもある。)

これが世界的な大きな潮流に見られるが、
実はアジアにおいては、トウモロコシよりか、
高温多湿のアジアの気候に適し、風土にとっては緑のダムともなる、田園、棚田は、地域を守る要になるだろう。
そんな、気候から栽培に適したお米。
お米を使って燃料やプラスチックや飼料もできる。
そんな技術もエコプロダクツの世界では道が開いてきてる。

そんなわけで、米農業の量産の方向が、様々な課題と可能性をもってくるという、新しい局面。

農業は食べ物だけをつくるのでなく、環境保全と同時に、燃料や新素材ともなり先端産業となりえると言う事だ。

米は人が食べるのは安心安全という、量より質の時代になって来たが、
それが工業用素材となると、量産のままで良い事にもなる。
本気の米農家には作りすぎでも、減反せずに、
ニーズが多大だから、今後は供給先さえしっかりすれば文句言われないことにもなる。

むろん、量産用で質を問わないからといっても、
農薬依存した旧来農業は、やはり風土に、土や水に負担がかかることに変わりない。水産や気候に大きい影響を与えるから、
風土調和しつつ、量産&質の追及がいる時代なんだ。

ここだって、CO2排出権を小口投資家にも流通可能なように、信託銀行で取引するような時代になってるから、
どう、負荷を減らしつつ、農業生産するか、とても大事になってる。

また、別の局面では外食産業においても、
生き残りの為に地方の個性、特産物が注目されて、美味しい、かつ都市ではけして手に入らないから、
地方は今後ブランド食材の供給地になっていく可能性が高い。

つまり、
地方の役割りは今後、温暖化対策、安心安全の食文化両面で、
生きて行く為に必用な本物を本気でたくさん作る、
そんな時代になる事はきっと間違いない。

これは地方がかつて、高度成長期に工場を誘致して
風土をハイスピードで破壊しつづけた時代から
大きく転換する時代になったといえるだろう。

風土を保全しながら、経済活性&食糧生産、水質保全ができる時代に技術と経済政策と、世界的課題によって、
否が応でも、そうなってきてることを背景に感じさせるものである。

豊かで固有な自然風土をもつ地方各地は、
それを最大限の財産として発揮し、
商工業のノウハウも活かして、安全なものをどんどん作る。

そんな時代になってるのだ。

都市と地方の各差を言われるが、21世紀では農林水産業の調和によって、
自然と人の営みが適正保全できている生産力の高い地方は単なる田舎ではない。
人類が必要とする本当の財産となってきてるんじゃないだろうか。
  1. 2007/01/26(金) 00:02:20|
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瀬戸の太陽 

平郡島から蜜柑が届いた。
漁師のたかさんが送ってくれたもの。

http://www.geocities.jp/takaharu0028/heigun.htm"
ホームページ

島から届いた満面の太陽。葉っぱもついてるぞ。w
意図しない葉っぱがついてるとなんか嬉しい。

今度の蜜柑は傷だらけ。サイズもバラバラ。
皮が分厚い。今年の台風の影響か。
けど、食べてみると味がなお濃く。
なんか原始的な。野生の強さとはこういう事だろうか。
表情豊かで、
まるで潮風を浴びた野武士のようにみえた。

最近、作物を食べるとその土地の風景を思い浮かべる。

たかさん、いつもありがとう。
mikanheigun.jpg

  1. 2006/12/27(水) 19:08:31|
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東商運輸交通部会 ロジステクスと環境

ロジステクスと環境問題というテーマで東商の部会があったので、丸の内にいってきた。

私は東商会員で、交通運輸部会と資源エネルギー部会、商業部会、工業部会なんつうのに入ってる。

デザイナーと物流業界て関係ないとおもうかもですが、
後で描くけど、環境前提の時代ではとても密接なんです。

***

物流業界は基本的にトータルコストを下げる事、サービス水準向上なんてこと=効率化と競争力確保を昭和60年代まではやってた。
それ以降、
ロジステクスという概念がでてきて、運輸業界だけでなくて、物流に関わる「外部性」の問題(これは経済学用語で、自社以外の事も最初から勘案し、調和を取ることだそうで。)
も包括して環境改善が要るようになってきてる。

CSR(企業倫理)なんかもそれである。
環境負荷軽減で実際コストダウンもできるし、
企業イメージアップも直接業績に関わる。
だが、物流と仲良しの流通業界は広告業界と仲良しで
いまだに環境問題と真逆の事とやってたりする。
つまり、ブランドで差別化を煽って無駄な消費をさすとか、
本来妥当な質の良さでなく機能を劣化させても虚飾的贅沢をわざわざさす、
輸入品を増やし余計な物流を増やすなんていう、
前時代な部分をまだまだ持ってる。
緑化やエコ商品も少しは出だしたけども、
まだまだ持続不能な発想。
これは飽きる商品や刷新前提の店舗改装や不必要な新建築でスクラップアンドビルドを煽るなら、環境時代に合わない独善なのだ。
それを文化という良い方をするが、微妙とおもう。
今後は持続可能な文化を見いださないといけない時代なんです。

もとい、運輸業界では、
例えば陸海空のチェーンを一連に日本ならアジア一まとまりで結ぶことでジャンクションのロスを省き、大幅に流通コスト=環境コストをさげれるのだが、(この実践をしてるのが例えばFeDexのような貨物会社だったり。)
中国大陸の奥や熱帯の離島のような末端まで流通コントロールさせるのに荷物のロスの情報調整役として荷物管理代行のできるプロバイダが出てきてる。(これはIT産業なんかが担ってますね。)
ここまでは前時代的努力であるが、

今後(2005〜2009までの課題あたり)は
更なる環境負荷軽減という事になると、
既に限界まで効率化を追求してるから、
更に、京都議定書でいうところの
「日本全体で6%のCO2削減、物流業界では16%」も下げないといけない・・・
そこで「グリーン物流」なんて観点で
生活者も各地自治体も込みこみでCO2ダウン、温暖化対策なんてしてくださいな。という事を仰る。アイドリングストップとか、路上駐車規制とか。共同交通=電車やバスに載ろうよ。なんて。
「モーダルシフト」(自動車交通から、海運や鉄道への変革をする事。環境負荷がだいぶ減る。)
を推進するのに、運輸利用者に、「なるべく環境に優しい船便や鉄道を使ってくださいよ。」ってお薦めする、事になってる。
また、
もう一つはサービスを我慢してもらうなんて事に。・・・
これはかなりしんどいすね。
サービスが下がる事を生活者は嫌がるでしょうし、売上が下がると経営はやってけないでしょう。
(だが、以前資源エネルギー部会のときもそれは議題に上がってた。電気や空調使いまくる、無駄コスト満載のホテルや百貨店や専販業界なんか、やりだまにあがってた。最近は空調をダウンさすホテルもでてきてますね。)

単業種だとやれる事も限界だから、
問題解決の為に3PL(サードパーティロジステクス)なんて包括的考え、つまり、
商品の誕生から終末まで物流効率を勘案する事、もでてた。・・・
具体的には、
梱包し易いパッケージとか、無駄な印刷を避けるとか、
素材も自然調和するもの、
車自体もCO2削減の為に、無事故化、運転しやすさ、混雑緩和の為の街区形成や歩車住み分けできる道等、
さらには梱包や商品サイクルゴミは燃やさずに循環を考える、
生活者への啓蒙や生活提案も含むなんていう・・・
(こりゃ、運輸業界だけではムリですね。我々の居る空間デザインのジャンルです。)
なかで、労働現場は、貨物を大幅に人件費削減なんてでてきて、
やりすぎると事故の元になってきてる。本末転倒。
昨今良くあるJALやJRのムリ事故が典型例。
(例えば荷物を軽くするのにパレット無くして手運び=労働は悪化なんていうナンセンス)
そういう事でいかんともしがたい業界は行き詰まってみえたようで、
しまいに国や地方自治体の補助金支援なんて話もでたり。
(補助金は直接解決にならん、負担源が他所に移るだけだし。苦し紛れと思うんだが。・・)

そんなわけで、各業界のエンジニアや経営者達はそれぞれ専門のジャンルは素晴らしい伝統と知恵をおもちだが、いかんせん専門オタクすぎる部分があるようです。

私が携わる環境デザインというのは
多様な業種や地域景観や機能をトータルで調和を目差す計画設計です。意匠をスタイリングする表層デザインだけではない。

例えば
都市インフラの設計をより合理化快適化する事で、利用者の人為も勘案して道路の渋滞を減らす事ができる=環境負荷を大幅に削減できる。
その為にどういう交通が相応しいか?考慮する、
新システムを開発する必要が出る。
燃料は何がいいか、素材は何?
原油が切れると次は何を使うべき?
安全の為に、福祉の為に、街はどうあるべき?
色んなチャンネルでチェック調整しまくる。こういう話。
バランスとる為に
業種をボーダレスに渡り歩く感覚が要るんです。
私は計画者だから、ある意味岡目八目といえ、良く見える分がある。

***
部会が終わって、
質問者のなかで夕張なんかの過疎化の廃線鉄道の緑化なんて言う提案を言う人がいた。(なかなか良い発想じゃないの♪)
これは
私は以前同志社の電車学会の時に、軌道敷を緑化し、鉄道用地を生産緑地にするなんていう提案してたりしたが、
同じような事を考える人もいるもんだ、と思った。

こういう事は環境と経済を兼ねる事になります。
モノ〜空間まで、
業種ボーダレスなトータルデザインの領域。
私のお得意世界です。というわけで、
誰か運輸関係の方、いませんかね?
新ビジネスを共同開発しましょう。(^^

***

丸の内はすっかりクリスマスモード。
デコレーションは美しいね。・・・

かえって妻と茶のみ会議をしようとおもい、玉川上水を行く。
落ち葉が樹に溜まり、まことに絵になってる。
また、上水の護岸を剪定してた。春先に美しい花を咲かすだろう事が期待できる。
ささやかな魅力をつくり、人を呼べる歴史的な自然公園、都市の魅力と環境負荷軽減の為に、
案外大事だ。
  1. 2006/12/08(金) 16:22:05|
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砧、蘆花 名残秋

世田谷美術館で今やってる、パブリックアートの企画展をマイミクのそよこさんに教えてもらったんで、これは観ておこうと思い、買い物自転車で行って来たが、空っ風がえらい寒くて絶句した。
僅かな癒しは道路沿いにでも零れる名残秋の色彩。

***
日本のランドスケープアートの取り組みを歴史をおってわかり易くまとめてあり、
先人の仕事をつぶさに見れたので面白かった、
教えてもらえて感謝。
と同時に暫し考えさせられた。

最も重要な事は、公共芸術である以上、スタンスは貢献性がないといけないという事。
自分の立ち位置に関係するから、穴があくほど作品の造形手法や、スタンスを観ても、

私の考えはやはり変わらかった。

歴史背景、戦後〜高度成長、バブル崩壊後、そして、環境問題が派生してから後、順を追ってアート、という切り口で公共事業等を紹介していた。時代時代、その苦悩と表現への努力が見えた。

作家の仕事も可能な技術や手法を慎重に選択する事を基本におき、

形態や色彩の感動⇒空間コンセプトの感動⇒環境問題定義の発見⇒市民活動・教育との連携・・・と、
芸術の表現手法、技術発達、時代背景に合わせた哲学を移り進んでる。

ちなみに、私の興味や試みはいうなれば、この先。
環境問題や人間性の実際解決が王道だとおもってる。
ゆえに、
自然と街の歴史に対する敬意、常々、ありのままを感動に昇華したいまたは真逆に計画的再生開発へと目論んでいる。

私の興味は作品の成立背景と作家や企画集団の狙いである。

公共空間はとても重大な使命をもってるが、それを軽く観すぎる人が多いこと、これを普段つくづく感じてる。ここではそれよりか少しマシだが、どうだろう?とおもえるものも正直あった。
○○氏や○○氏の作品。

アートが単なるコケオドシや客引きでは品がない。
観る人を舐めてはいかん。
芸術家の苦悩はまさにそこにあるだろうし、
どんな画材、どんな手法でも、
後世でも感動できる本当に美しい仕事は、
いつの時代の芸術家も、
自然の大いなる法則を熟知表現してると思う。

展示してあった作品はどれも馴染みのある、各地で大抵一度は足を運んで空間体験のあるようなもので、
ゆえに、より、わかりやすかった。
河川の計画が2,3あったが、私は公園や河川のデザインに自発的あるいは、依頼されて関わって以降、特に水辺護岸のあり方に真摯に拘ってるので、制作者の苦悩や愚鈍な部分、成立さす為に貪欲に押し通しただろう部分も見て取れた。
自分だったら、どうするか?考えた。

最も気になったのは、その結果である。実はそこが大事だが、それについては殆ど表現されてない。
(当たり前だ。美術館の企画だから。)
国家や自治体の予算で巨額の工事費を使うこの手の事業で、結果、多大な貢献をしないと、それは独善、詐欺となり当世流の国民の公共事業叩き感覚で見るなら、責任を問われるはずだ。
常設ゆえにイベント的に軽く流すようなものでない。

例えば気になったこと
イサムノグチの仕事、原爆ドームの橋の名前、ikiru,shinu
⇒ikasu,tukuruに変えていた。徹底破壊を直視し、それを前向きな力へ昇華しようとし。
万博公園事業、図面を観て、太陽の搭の顔はまん丸でない事に気がついた。慎重に計算された歪んだ丸。まるで岡本太郎の予感のようだ。

具体運動にも繋がる高度成長期の表現活動は、まだ楽観的だ。
人間性解放の為に自由に描く事、実際解決は不可能と思ってた時代だろう、モチベーションをのみ重視してる。

モエレ沼、以前は沼でゴミの埋め立ての上にある事を知った。見てて、その土壌の発酵腐敗が気になる。ゴミは成分流出せず固化できてるのか?
不燃物は何処の自治体でも処理に困る事で、可能な限りリサイクルされるが、予算の厳しいところ、技術のないところは、真摯に解決する事を軽く流されてるとおもう。
このケースはまず、捨場=やむを得ない、とし、⇒有効活用、となったようだ。
私は札幌市とイサムノグチのその手法を観て、観光客や市民は喜んでるように見えつつも、それで良いか?(妥当な着地か)、表面的奇麗事か?(ゴミは掘り起こしてまで浄化する時代ゆえ、埋めたままにする事)を考えた。
これが河川の中洲だからなおさらだ。
緑地を残す為にやった、とあるが、これが調和可能な緑地といえるのか?もっと他の解決はなかったのか?
東京の夢ノ島に放置されたままだった、水爆実験被爆の第5福竜丸や、今もガス抜きしてる土地を思う。
ゴミを未利用で埋めるのは将来ツケが来ると思う。
だが、一方で、
こういう開放的アートは理屈抜きに市民に喜びを与えるものでもある、本当にいいのか?何度も何度も考えた。

津和野川の計画では私が柳井で指摘した事と同じように、乱積みの石積みや目地詰めをモルタルでしないようにする事、を説明してあった、それなり絵になってたが、所詮、形態の感。

棚田や茅場保全のワークショップやなんかは普段マイミクさん方と話し合ってる事とベクトルが同じ、古い伝統と新しい世代が、どう、共存してくか?である。ここでは慎重に形態から離脱する試みがあった。が、まだ問題定義にすぎない。
アートの力はここまでか?むむむ・・・・

トータルで観て、やはり、美術館の企画だから、当然表層的な美の模索、市民活動、そこまでは学芸員は観てるが、
その成立背景や使命の重大さについて、
自分も公共にとり組んでるゆえに辛口だが、
ツメが甘い事を感じた。

私はアートが本当に街にいるのか?しばしば思う。
アートが嫌いなんじゃない。どっちかというとかなり好きだ。
子供の頃から絵を描き彫刻をし、なんてずっとやってきた。
けど、
面白い事とよいことは違う。
しかし、
面白い事をやって、生活に色を添える為も大事である。
だが、
昨今、自治体が抱えてる問題はそんなに単純じゃない。
先進国なのに、
まともに生活できるかどうか解らない人が出るような実状だからだ。この程度では世界の南北問題解決のリーダーシップは取れないだろう。

ゆえに、
こういう啓蒙や実際貢献に関わる、公共の試みにおいて、
時代を超えて飽きさせない、継続貢献できてるか?
というと、
シンプルに健全な自然再生事業のほうが「素直だ」とも、おもう。
アートとは、
より美しいもの、理屈抜きに感動するものを表現する事だとおもうが、
自然のダイナミックな造形に比べると
人が作るものは実に脆く、移ろい易く、幼稚で、小さく、
時代に簡単に流される。なんか切ない。
これでは、
音楽や文学や情報という無形文化のほうがローインパクトで無難かもしれない。
けど、それは本当に変革に足りない。
空間は触れる、味わえる、質感が大事だ。
やはり、
なにより健全な山河あり、か?。
だので、こういう解決方法には良いのか、悪いのか、正直疑問だ。

結局応えを出せないまま、砧公園を散策し、また、途中蘆花公園にもよって、秋の名残、落ち葉を掻き分け歩いて、
連綿と続く落ち葉や木肌の類稀な造形美に
またしても、素直に感動する。

忘れられたかのように、晩秋に溶け込む茅葺、
人のいない静寂な蘆花氏の旧居を散策思索。
  1. 2006/12/05(火) 19:27:10|
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